スティーブ・ジョブズの垂直統合型アプローチはみんなに本当に優しいのか考えてみる

Appleはジョブズの哲学の元に、ユーザ体験を統合的に作り上げてきた会社だ。Appleの製品は、その哲学に基づいて設計されており、すべての製品やサービスの使い勝手は美しく限りなくシンプルに統一され、ユーザを迷わせないように作られている。

その裏にはAppleのユーザに対しての考え方が二つある。

一つは、ユーザは自分が欲しいものを知らない。だから、Appleが代わりにそれを考え実現する。それが、「Appleは、未来にふつうにあるであろうものを今作る」ユーザ調査など無視して、ジョブズの考える完璧な操作感、無駄のないデザインのデバイスを作り上げた。

もう一つが、「ユーザはコンピュータを使って何かを実現したいのであって、コンピュータそのもののメンテや配線などに手間取りたくなんてないはずだ」初代ボンダイブルーのiMacの箱を開けて、ハンドルを持って取り出し、コンセントとマウスとキーボードを繋ぎ、電源を入れたらHelloと言ってくれるコンピュータを作った。

つまり、Appleこそは「みんなのための」コンピュータを作る会社のはずなのだ。ウォズのようなハッカーのためでなく。

ところがまわりを見回してみると、Apple全盛の今でさえ、Macを使う人はエンジニアやデザイナーなどクリエイターばかり。コンピュータにこだわりのない人はWindows。「かんたん!今日からはじめるパソコン」みたいな大きな文字のムック本の表紙には2ボタンマウスとWindows7のスタートボタンが、これこそがパーソナルコンピュータだと主張している。

iPhoneはWindowsMobileやモバイル版用Linuxをあっというまに過去のものにしてスマフォの時代を作ったけれど、「アクティベートやアップデートにコンピュータが必要」がアダとなり(iOS5でだいぶ改善したけど)コンピュータを持ってない人はAndroidをこぞって買った。

ユーザ体験の点でWindowsやAndroidは、Appleの美しさシンプルさにはとても及ばず煩雑だ。

だが、WindowsでもAndroidでもAppleでも同じことができる。WindowsもMacも、インターネットができ、オフィスソフトが使え、動画を編集できる。AndroidもiPhoneも、電話ができ、カメラがあり、GPSとマップが連携し、様々なユーザ開発のアプリが使える。

デバイスを通じて実現できることは、実は案外変わらない。体験の質は違ったとしても。

だからユーザを素晴らしい体験を保証できるAppleのエデンの園に囲い込むために、ジョブズはiPodをiTunesをMac専用にすべきと強く主張し、iPhoneアプリの開発をオープンにするのを渋った。これらはAppleスタッフとジョブズとの熾烈な戦いの末、ご存知の通りささやかなオープン化が実現している。もしジョブズが勝っていたら今のAppleはないだろう。

ジョブズは既にあるものを本来あるべきひとつの姿に美しく徹底的に磨き上げる天才なのだろう。だが、みんながみんな、その唯一無二の美しさを、これこそが正しいのだという哲学を、求めているのだろうか?その哲学は「自分が欲しい物がわからず、与えられたものを喜び、煩雑さを嫌う」人々にフィットするのであろうか?

そして、Appleの哲学を理解し心酔する人々が自ら選びAppleを使う世の中になった。彼らはジョブズをロックスターのように扱い、その御託宣に熱狂的に耳を傾け、新製品をわれ先にと買う。単にコンピュータでネットを使って情報を得たい、とだけ思う人々に彼らの熱狂はどう映るだろうか。

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「あなたの時間は限られている。 だから他人の人生を生きたりして無駄に過ごしてはいけない。 ドグマにとらわれるな。それは他人の考えた結果で生きていることなのだから。 他人の意見が雑音のようにあなたの内面の声をかき消したりすることのないようにしなさい。 そして最も重要なのは、自分の心と直感を信じる勇気を持ちなさい。 それはどういうわけかあなたが本当になりたいものをすでによく知っているのだから。」 Steve Jobs

私は思う。誰か一人に、どこか一社に完全にコントロールされた世界なんて嫌だ。それがどんなに美しくとも。Appleの他のスタッフとのコラボレーションの結果、Appleの製品にもたらされたいくつかのオープンさがあってよかった。Appleのコントロールドな世界を私は私の意思で、その哲学に沿わぬほどカスタマイズして使うし、同時にオープンな自由で混沌とした世界にも耽溺していきます。

だって、私は多神教の世界のひとだもの。

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